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今回は3、4回に分けて自分を形創るといいますか、その柱について語りたいと思います。
最初に言いますが、まずこれはあくまで今の私の考えなので鵜呑みしないでください。
変化もあれば稚拙でもあります、また、文を書いているとき私は絵を描くように勝手に指が書いてしまいます。
そのため、おかしな文章になってしまいますがご理解のほどよろしくお願いします。
では、どうぞ。
↓
まず中心になる大地は「時間」です。
最近私は時間についての考えを改めました。
時間は持っているのではなく、借りているだけなのだと。
時間とは数値化出来るものも然り逆も然りです。
時間を持って私達は生きているのか。
私は生きていない。私は生かされている。
時間を持っていない。
産まれ、生き、死ぬ。
その中で私は自分で立っているわけではない。
この地球の中にあるさまざまなもので私は支えられている。
だから時間を借りていると言った方が正しいのだ。
大きなモノから時間を借りて私はここに来てしまった。
その大きなモノとは生きているモノ、失ったモノ、消えたモノたちだ。
地球が生まれてからの産物達のことだ。
自然も人間も動物も植物だ。
時間をこの手に借り受けた。借りた時間には多くの消えたモノがあふれてる。
私がここにいるのは今まで消えたモノを踏みつけているからだ。
それらがなければ私など存在してはいない。
そして消えたモノたちは今を生きているモノへの花束になってる。
自然も人間も動物も植物も。
借りた時間はいつか返さなければならない。
死を抱きしめなければならない。
稚拙な私ではいつ死を抱きしめるか皆目見当がつかない。
けれど、死は次へのモノへの大地になると信じている。
私は消えてしまって救われるモノが必ずあるから。
それは人間か自然か動物か植物かわからない。
だけど返したとき、救われるモノがある。
新しく産まれるモノたちへ。
借りた時間はいつか返さなければならない。
死を抱きしめなければならない。
その日を胸に堂々と私は時間を返せるようになる。
実際、そんな状況に陥ることはない。
だからこそ、志だけは持ちたいのだ。
新しいモノに今を生きるモノに。
私が生きて死ねば失うモノも救われるモノがある。
でも、それが生きることだと思う。
私は長い長い歴史の中のモノたちを踏みつけてきた。
これからも時間を借りる限り踏み続ける。
だから時間を返す時は堂々を踏みつけられるような、
自分なりに恥の無い「人間」としていきたい。
時に哀れに愚かな尊く儚い生きモノたち。
次の時間を借りるモノ達への花束になりたい。
無力な私じゃこれぐらいしか思いつかないから。
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