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ツイッターでも呟いたのですが、自己確認(整理)ということで書きます。
電車のようなものなのかも。同じ電車に乗り、私達は同じ時間を共有する。
車内には個々の生き方がある。読む、寝る、話す、眺めるように別々の状態
…つまり生き方がある。私達はいつか着く目的地を目指しながら揺られている。
今日、電車で帰っている途中に思いました。
上記のままですが、人生は皆時間を持って生きていて、それは電車の車内に
いるようなものだと。同じ時間に乗り込んだから。
車内ではいろんな人がいる。自分と違う人が沢山いる。(もしかしたら、動物も
植物もいるかもしれません。)
その中で人は様々な方法で電車内の中の自分を維持しようとします。
寝る人、隣人や友人と話す人、眠る人、景色を眺める人などなど。
その電車内の中の自分の維持は、私には個々の人生の生き方に見えたのです。
同じ時間を共有し、且つその時間をどう過ごすかということです。
誰も否定をせず、肯定もしません。ただ、電車内の規則を守ってそれぞれ過ごしています。
暗黙のルールを背負って過ごしています。
そんなことをしながら目的地の駅へと電車に揺られていきます。
目的地…要は死です。必ず、皆目的地へと足を運びます。
注目すべきはその目的地は個々によって異なるという点です。
ある人はA駅、ある人はS駅というように目的地は個人の思想によりバラバラなのです。
電車の場合は駅は「ここだよ」とあらわされていますが、人生の場合、そうはいかない。
最期の目的地で目的を果たすために歩いているのにもかかわらず、その場所は私たちは
100%指定することが出来ない。目的地が遠いのか近いのかもわからない。
依存している数値さえそこでは役に立たない。
電車の中で揺られ、揺られ、その中でいつ来るか分からない目的地への駅まで、
車内の中で自分は何が出来るのか。私は何が出来るのか。何を出来るのか。
何を貫き通せるのか。何に使えるだろうか。
今日の帰りの電車は、電車に見えなかった。
一種の高揚、そして恐怖を感じた。
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ここまで読んでくださってありがとうございました。
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